今年の3月31日をもって廃止となった島原鉄道の島原外港〜加津佐間。
通称、「南目線」と呼ばれていたこの区間は、私の両親の出身地を通る路線でもあったことから、殊更個人的な思いが深い路線でした。
それだけに、この区間の廃止は、他の路線以上に寂しい思いを抱かざるを得ませんでした。
それから半年。
先日の乗車記録でもちらっとご紹介したとおり、急遽南島原市まで行かなければならない用件が発生しましたが、その用件も滞りなく済ますことができ、帰阪日の早朝、ちょっと時間があったので、廃止となった島鉄の路線でも見に行ってみようとふと思い、早朝から出かけてみることとしました。
なお、今回は急な用事と言うこともあり、デジカメを持参していなかったため、携帯電話のカメラ機能を使った撮影となっている旨、あらかじめお知らせします。
向かった先は、旧北有馬駅。

旧北有馬駅駅舎。

駅舎そのものは現存していますが、出入りする人は皆無。当然です。
廃止前のダイヤでは、15分ほどすれば加津佐行きの列車が入線する時刻ですので、きっと廃止前には、何人かの高校生や地元の人が列車を待っていたのではないのでしょうか。

その駅構内。
駅構内では既にレールが撤去され、枕木が積まれていました。
剥がされた鉄路の跡が、揺るぎない現実を物語っていました。

駅ホーム(諫早方)の待合室。
きっと廃止前は列車の時刻表が掲示されていた筈の場所です。
現在は、鉄道廃止と代替バス利用の案内が掲示されていました。

プラットホームを見てみます。
駅名標の周りには様々な資材が置かれていました。
きっと、一連の撤去作業の関係の資材でしょうか。
勿論、列車を待つ人の姿はありません。

北有馬駅の駅名標。
この駅名標は、廃止前と同じ姿で残っていました。
もう既に、ここを走る列車は無いはずなのに、律儀に両隣の駅名をも表示していました。

加津佐方面を眺めます。
レールの撤去はほぼ進んでいるようですが、それ以外の作業はまだ進んでいないようです。
他の箇所でも大体同じような進捗具合で、まだ列車が走っていた頃の面影は感じ取ることはできました。
ただ、これから月日が経つにつれて、こういった面影が消えていき、それと同じく人々の記憶からも消えていくのかな、と思うと何だかやるせない気持ちになりつつ、とぼとぼ歩いて駅から帰ることとしました。
5年後、10年後。
果たしてこのブログが続いているかどうかは分かりませんが、仮に続いていたとすれば、その後の同じ場所を記録することができればな、とも思いました。
おまけ。

かつて、長崎県営バスが島原半島内に路線を有していた時、島鉄バスと県営バスの双方が停車する停留所には、「県営・島鉄」と併記されていました。
県営バス撤退後、島鉄のみの運行となりましたが、当のバス停は、「県営」の文字を消しただけで、引き続き使用しています。
左側の消した跡が、かつて県営バスも発着していたことの証です。
通称、「南目線」と呼ばれていたこの区間は、私の両親の出身地を通る路線でもあったことから、殊更個人的な思いが深い路線でした。
それだけに、この区間の廃止は、他の路線以上に寂しい思いを抱かざるを得ませんでした。
それから半年。
先日の乗車記録でもちらっとご紹介したとおり、急遽南島原市まで行かなければならない用件が発生しましたが、その用件も滞りなく済ますことができ、帰阪日の早朝、ちょっと時間があったので、廃止となった島鉄の路線でも見に行ってみようとふと思い、早朝から出かけてみることとしました。
なお、今回は急な用事と言うこともあり、デジカメを持参していなかったため、携帯電話のカメラ機能を使った撮影となっている旨、あらかじめお知らせします。
向かった先は、旧北有馬駅。
旧北有馬駅駅舎。
駅舎そのものは現存していますが、出入りする人は皆無。当然です。
廃止前のダイヤでは、15分ほどすれば加津佐行きの列車が入線する時刻ですので、きっと廃止前には、何人かの高校生や地元の人が列車を待っていたのではないのでしょうか。
その駅構内。
駅構内では既にレールが撤去され、枕木が積まれていました。
剥がされた鉄路の跡が、揺るぎない現実を物語っていました。
駅ホーム(諫早方)の待合室。
きっと廃止前は列車の時刻表が掲示されていた筈の場所です。
現在は、鉄道廃止と代替バス利用の案内が掲示されていました。
プラットホームを見てみます。
駅名標の周りには様々な資材が置かれていました。
きっと、一連の撤去作業の関係の資材でしょうか。
勿論、列車を待つ人の姿はありません。
北有馬駅の駅名標。
この駅名標は、廃止前と同じ姿で残っていました。
もう既に、ここを走る列車は無いはずなのに、律儀に両隣の駅名をも表示していました。
加津佐方面を眺めます。
レールの撤去はほぼ進んでいるようですが、それ以外の作業はまだ進んでいないようです。
他の箇所でも大体同じような進捗具合で、まだ列車が走っていた頃の面影は感じ取ることはできました。
ただ、これから月日が経つにつれて、こういった面影が消えていき、それと同じく人々の記憶からも消えていくのかな、と思うと何だかやるせない気持ちになりつつ、とぼとぼ歩いて駅から帰ることとしました。
5年後、10年後。
果たしてこのブログが続いているかどうかは分かりませんが、仮に続いていたとすれば、その後の同じ場所を記録することができればな、とも思いました。
おまけ。
かつて、長崎県営バスが島原半島内に路線を有していた時、島鉄バスと県営バスの双方が停車する停留所には、「県営・島鉄」と併記されていました。
県営バス撤退後、島鉄のみの運行となりましたが、当のバス停は、「県営」の文字を消しただけで、引き続き使用しています。
左側の消した跡が、かつて県営バスも発着していたことの証です。

私も昨日、島原鉄道の廃線探索をしてきました。
後日、ホームページで公開予定です。