30年前の今日、1995年1月17日に、兵庫県淡路島北部を震源とするマグニチュード7.3の地震が発生しました。
「阪神・淡路大震災」と命名されたこの地震で6千人以上の方がお亡くなりになりました。
しかしこの震災は、その後の我が国の自然災害に対する教訓となり、その後の自然災害での被害縮減に大いにつながることとなりました。
木造、非木造関係なく、多く倒壊したことから、耐震補強の重要性が認識され、建物の耐震診断や耐震補強工事の促進施策にも繋がりましたし、何より仮に災害が発生してもその被害を最大限抑えることで犠牲者を一人でも減らす「減災」の考え方が生まれたきっかけも、この阪神・淡路大震災といえるでしょう。
災害発生時に特に急を要する救急医療についても、「DMAT(災害派遣医療チーム)」が組織され、その後の災害で全国各地から派遣されるようになっていますが、そのDMATの制度が創設されるきっかけとなったのも、この阪神・淡路大震災でありました。
また、今では災害発生時に活動することが当然のことのように思われている「災害ボランティア」も、その活動が初めてクローズアップされたのも、この阪神・淡路大震災であったといえます。
阪神・淡路大震災で活動した災害ボランティアの貢献とその教訓が、その後の災害に活かされているのも、これまた衆目の一致するところでありましょう。
このように、数多くの犠牲を生んだ震災ではありましたが、そこから得た教訓は間違いなくその後の災害対応に活かされ、それにより助かった命も勿論あったといえるでしょう。
いまの我々が、この災害大国の日本で、このように安全・安心して暮らしていけるのも、そういった犠牲や教訓から得られたものだ、ということを強く噛みしめて、日々大切に生きていきたいと思います。
阪神・淡路大震災から30年ということで、私個人の当時の話を書いていきたいと思います。
ただ単に、大学が休校となり、レポートを提出し、再開後は通学方法を変えたというだけの話ですが、当時の記録の一つ、ということでお読みいただければ幸いです。
阪神・淡路大震災発生当時、私は神戸市灘区にある大学の1回生で、大阪府堺市から毎日通学していました。
30年前の1月17日は三連休明けの火曜日で、1時間目に第二外国語(ドイツ語)のテストがあったため、朝5時半頃に布団の中で目を覚まし、そろそろ起き上がって支度をしよう、としていたところ、激しい揺れに遭いました。
私の住んでいた地域(泉北高速鉄道・泉ケ丘駅周辺)では、震度4程度あったように記憶していましたが、当時住んでいたのが団地の4階であったこともあってか、かなり激しい揺れで、書棚に並べていた時刻表が全て落ちてきたり、家の仏壇が倒れたりと、家の中はこれまでに見たことのない荒れ模様となっていました。
あまりにも激しい揺れであった一方、ドイツ語のテストもあったことから、何とか登校しようとテレビで情報を集めていたら、神戸市内で激しい火事が発生していることがわかり、とてもじゃないが登校できるわけがない、ということで、駅に行くのも諦め、その日は一日中テレビを見て情報を収集していた記憶があります。
被害の状況が明らかになるにつれ、とてもじゃないがすぐには大学に通学することができないことから、その後結局4月上旬(新年度)まで大学は休校となりました。
2月に入ってから、大学から郵便が到着し、成績評価について、期末試験が実施できないことから、科目によって「レポート提出」「平常点」で評価する旨のお知らせがありました。
思えば、これが大学から最初の連絡だったと思います。
現在では、インターネットが発達し、災害時においても大学からの連絡事項は時間差なく受け取ることができますが、当時はインターネットというのは、個人向けにはほぼ皆無の時代でしたので、大学からの連絡を受け取るのにおよそ半月程度を要した、というのも、語り継いでいきたいことの一つです。
「語り継ぐ」という意味では、期末評価のうち「レポート提出」について、現地の郵便事情が判然としないことから、大学へ直接持参することにしました。
2月の下旬だったかと記憶しています。
当時は大阪方面から最も大学に近いところまで運転していたのが、阪神電鉄でしたので、当時復旧していた御影駅まで乗車して、そこから歩いてみました。
大阪〜三ノ宮間の、当時の運行状況はこのように記憶しています。
「運転見合わせ」となっていた区間は、いずれも高架橋が落下し、その撤去・復旧のために長期の運休となっていた区間でした。
それが故に、大学の最寄りまで運行していた神戸市バスも、鉄道復旧工事の影響もあって、運休の区間が発生していたようで、通常は阪神御影駅から大学まで向かうバス(神戸市バス36系統)も、御影駅から運休だったようで、徒歩で向かうこととしました。
御影駅から徒歩で約1時間かけて、大学に到着しました。
途中、公園でのテント生活している被災者や、地震で倒れた住宅や壁など、一ヶ月以上経ってもまだまだ発生当時の様子を残している惨状に、何を思えばいいのか自分でも分からない光景の中、延々と歩き無事に大学に到着し、レポートを提出したときのことは、今でも覚えています。
淡々と処理してもらった一方、無事に届けることができて安心した記憶があります。
帰りは坂道を下り、時間があったので阪急神戸線の代行バスに乗車しました。
確か御影駅(の代行バス停留所)から乗車し、乗車したのは丹後海陸交通の観光バスだった記憶があります。
そういえば丹海バスも阪急グループだったなあ、と妙なところで納得していましたが、歩き疲れたからか、バスの中で居眠りし、一時間ほどたって目が覚めてもまだ、終点の西宮北口駅に到着しておらず、よっぽど道路事情が悪かったのだ、ということを今でも覚えています。
御影から西宮北口まで、2時間ちかくかかったでしょうか。
西宮北口からは復旧済みの阪急神戸線に乗車し、梅田駅に戻ってきたのは夕方頃。
阪神電車で梅田駅を出発したのが昼頃だったので、ほぼ半日かけてレポートを提出してきたことになりました。
その後、JR神戸線が4月1日に全線復旧したこと、そして大学で学生受け入れの体制が整ったことから、4月から大学の授業が再開となりました。
4月最初のガイダンスの日は、サークルの東北合宿からの帰りで直接出席しましたが、当時の友人達と再び顔を合わせることができたのが、本当に嬉しかった記憶がありました。
(当大学では、阪神・淡路大震災で学生39名、職員2名の計41名が犠牲となりました。
参考:阪神・淡路大震災から29年 亡き学生らをしのび慰霊献花式 ―六甲台、深江キャンパスで― | 国立大学法人 神戸大学 (Kobe University))
上述のとおり、4月1日からJR神戸線が運転再開となった一方、震災前まで利用していた阪急神戸線は、引き続き運休が続いていたため、4月から当分の間、JR神戸線で通学していました。
阪急六甲駅とJR六甲道駅とは、徒歩で約10分の距離でしたが、JR線の快速列車の方が所要時間が短かったこともあり、通学時間は大きく変わらないように記憶していますが、一方で定期運賃は阪急の方が安いことから、負担が増えたことが印象に残っています。
阪急神戸線が全線運転再開となる6月上旬をもってJR神戸線での通学は終了し、休校や通学ルート変更という、私個人にとっての震災の影響は、ここで解消されることとなりました。
阪神・淡路大震災も、もはや「語り継ぐ」時代になってきているのかな、と思うと、30年という時の流れを感じずにはいられません。
当時の記録は、写真・印刷物含めてほとんど手元に無いことから、このように記憶をテキストベースでしかご紹介できないのが惜しいところですが、「オーラルヒストリー」の一つとして、少しでも記録に残すことができれば、と考え、当時のことを思い出しながら書いてみました。
最後になりましたが、阪神・淡路大震災で犠牲となった方々のご冥福を改めてお祈りしたいと思います。
「阪神・淡路大震災」と命名されたこの地震で6千人以上の方がお亡くなりになりました。
しかしこの震災は、その後の我が国の自然災害に対する教訓となり、その後の自然災害での被害縮減に大いにつながることとなりました。
木造、非木造関係なく、多く倒壊したことから、耐震補強の重要性が認識され、建物の耐震診断や耐震補強工事の促進施策にも繋がりましたし、何より仮に災害が発生してもその被害を最大限抑えることで犠牲者を一人でも減らす「減災」の考え方が生まれたきっかけも、この阪神・淡路大震災といえるでしょう。
災害発生時に特に急を要する救急医療についても、「DMAT(災害派遣医療チーム)」が組織され、その後の災害で全国各地から派遣されるようになっていますが、そのDMATの制度が創設されるきっかけとなったのも、この阪神・淡路大震災でありました。
また、今では災害発生時に活動することが当然のことのように思われている「災害ボランティア」も、その活動が初めてクローズアップされたのも、この阪神・淡路大震災であったといえます。
阪神・淡路大震災で活動した災害ボランティアの貢献とその教訓が、その後の災害に活かされているのも、これまた衆目の一致するところでありましょう。
このように、数多くの犠牲を生んだ震災ではありましたが、そこから得た教訓は間違いなくその後の災害対応に活かされ、それにより助かった命も勿論あったといえるでしょう。
いまの我々が、この災害大国の日本で、このように安全・安心して暮らしていけるのも、そういった犠牲や教訓から得られたものだ、ということを強く噛みしめて、日々大切に生きていきたいと思います。
阪神・淡路大震災から30年ということで、私個人の当時の話を書いていきたいと思います。
ただ単に、大学が休校となり、レポートを提出し、再開後は通学方法を変えたというだけの話ですが、当時の記録の一つ、ということでお読みいただければ幸いです。
阪神・淡路大震災発生当時、私は神戸市灘区にある大学の1回生で、大阪府堺市から毎日通学していました。
30年前の1月17日は三連休明けの火曜日で、1時間目に第二外国語(ドイツ語)のテストがあったため、朝5時半頃に布団の中で目を覚まし、そろそろ起き上がって支度をしよう、としていたところ、激しい揺れに遭いました。
私の住んでいた地域(泉北高速鉄道・泉ケ丘駅周辺)では、震度4程度あったように記憶していましたが、当時住んでいたのが団地の4階であったこともあってか、かなり激しい揺れで、書棚に並べていた時刻表が全て落ちてきたり、家の仏壇が倒れたりと、家の中はこれまでに見たことのない荒れ模様となっていました。
あまりにも激しい揺れであった一方、ドイツ語のテストもあったことから、何とか登校しようとテレビで情報を集めていたら、神戸市内で激しい火事が発生していることがわかり、とてもじゃないが登校できるわけがない、ということで、駅に行くのも諦め、その日は一日中テレビを見て情報を収集していた記憶があります。
被害の状況が明らかになるにつれ、とてもじゃないがすぐには大学に通学することができないことから、その後結局4月上旬(新年度)まで大学は休校となりました。
2月に入ってから、大学から郵便が到着し、成績評価について、期末試験が実施できないことから、科目によって「レポート提出」「平常点」で評価する旨のお知らせがありました。
思えば、これが大学から最初の連絡だったと思います。
現在では、インターネットが発達し、災害時においても大学からの連絡事項は時間差なく受け取ることができますが、当時はインターネットというのは、個人向けにはほぼ皆無の時代でしたので、大学からの連絡を受け取るのにおよそ半月程度を要した、というのも、語り継いでいきたいことの一つです。
「語り継ぐ」という意味では、期末評価のうち「レポート提出」について、現地の郵便事情が判然としないことから、大学へ直接持参することにしました。
2月の下旬だったかと記憶しています。
当時は大阪方面から最も大学に近いところまで運転していたのが、阪神電鉄でしたので、当時復旧していた御影駅まで乗車して、そこから歩いてみました。
大阪〜三ノ宮間の、当時の運行状況はこのように記憶しています。
【阪神本線】
梅田〜御影:運転再開
御影〜三宮:運転見合わせ
【阪急神戸線】
梅田〜西宮北口:運転再開
西宮北口〜御影:運転見合わせ
御影〜王子公園:運転再開
王子公園〜三宮:運転見合わせ
【JR神戸線】
大阪〜住吉:運転再開
住吉〜灘:運転見合わせ
灘〜三ノ宮:運転再開
「運転見合わせ」となっていた区間は、いずれも高架橋が落下し、その撤去・復旧のために長期の運休となっていた区間でした。
それが故に、大学の最寄りまで運行していた神戸市バスも、鉄道復旧工事の影響もあって、運休の区間が発生していたようで、通常は阪神御影駅から大学まで向かうバス(神戸市バス36系統)も、御影駅から運休だったようで、徒歩で向かうこととしました。
▲阪神御影駅のバスのりば。
写真は2020年2月に撮影したもので、震災当時のものではありません。
御影駅から徒歩で約1時間かけて、大学に到着しました。
途中、公園でのテント生活している被災者や、地震で倒れた住宅や壁など、一ヶ月以上経ってもまだまだ発生当時の様子を残している惨状に、何を思えばいいのか自分でも分からない光景の中、延々と歩き無事に大学に到着し、レポートを提出したときのことは、今でも覚えています。
淡々と処理してもらった一方、無事に届けることができて安心した記憶があります。
▲御影駅から約1時間かけて、徒歩でレポートを提出してきました。
この画像も2020年2月のものですが、丁度この25年前にも、この学舎の姿をみて、安心した記憶があります。
帰りは坂道を下り、時間があったので阪急神戸線の代行バスに乗車しました。
確か御影駅(の代行バス停留所)から乗車し、乗車したのは丹後海陸交通の観光バスだった記憶があります。
そういえば丹海バスも阪急グループだったなあ、と妙なところで納得していましたが、歩き疲れたからか、バスの中で居眠りし、一時間ほどたって目が覚めてもまだ、終点の西宮北口駅に到着しておらず、よっぽど道路事情が悪かったのだ、ということを今でも覚えています。
御影から西宮北口まで、2時間ちかくかかったでしょうか。
西宮北口からは復旧済みの阪急神戸線に乗車し、梅田駅に戻ってきたのは夕方頃。
阪神電車で梅田駅を出発したのが昼頃だったので、ほぼ半日かけてレポートを提出してきたことになりました。
その後、JR神戸線が4月1日に全線復旧したこと、そして大学で学生受け入れの体制が整ったことから、4月から大学の授業が再開となりました。
4月最初のガイダンスの日は、サークルの東北合宿からの帰りで直接出席しましたが、当時の友人達と再び顔を合わせることができたのが、本当に嬉しかった記憶がありました。
(当大学では、阪神・淡路大震災で学生39名、職員2名の計41名が犠牲となりました。
参考:阪神・淡路大震災から29年 亡き学生らをしのび慰霊献花式 ―六甲台、深江キャンパスで― | 国立大学法人 神戸大学 (Kobe University))
上述のとおり、4月1日からJR神戸線が運転再開となった一方、震災前まで利用していた阪急神戸線は、引き続き運休が続いていたため、4月から当分の間、JR神戸線で通学していました。
▲当時、JR神戸線を利用して通学していた際の定期券。
復旧時期が明らかでなかったこともあり、1ヶ月毎に定期券を購入していた模様です。
阪急六甲駅とJR六甲道駅とは、徒歩で約10分の距離でしたが、JR線の快速列車の方が所要時間が短かったこともあり、通学時間は大きく変わらないように記憶していますが、一方で定期運賃は阪急の方が安いことから、負担が増えたことが印象に残っています。
阪急神戸線が全線運転再開となる6月上旬をもってJR神戸線での通学は終了し、休校や通学ルート変更という、私個人にとっての震災の影響は、ここで解消されることとなりました。
阪神・淡路大震災も、もはや「語り継ぐ」時代になってきているのかな、と思うと、30年という時の流れを感じずにはいられません。
当時の記録は、写真・印刷物含めてほとんど手元に無いことから、このように記憶をテキストベースでしかご紹介できないのが惜しいところですが、「オーラルヒストリー」の一つとして、少しでも記録に残すことができれば、と考え、当時のことを思い出しながら書いてみました。
最後になりましたが、阪神・淡路大震災で犠牲となった方々のご冥福を改めてお祈りしたいと思います。
▲阪急神戸線・岡本〜御影間を走る8000系。
この区間は震災での被害が大きかった区間の一つで、6月上旬まで運休が続きました。